矢作川ものつくりの史

   (油絵200号の作品について)
文:斎藤吾朗   

 景行天皇の王子日本武尊が岡崎付近で東征の折、一万本の矢を作ったことから矢作川と呼ばれるようになった。 東征に随行した尾張国造建稲種命は船から落ち、遺体は幡豆海岸に流れつき、衣は衣浦周辺に流れついた。 衣ヶ浦とか挙母(豊田の旧名)と呼ばれる由来である。古代は矢作川流域三河湾岸に多くの集落ができ、 土器作り、瓦作り、塩作り、船作り、青銅器作り、布作り、米作りなど多くの生活物資を作り、他の地域に提供していた。

 799年、天竺人(インド人)が矢作川河口に船で漂着した。大きな壺と一弦の琴を持っていた。 壺の中には棉の種、一弦琴は棉を打つための弓だった。これが日本に初めて棉の種が伝わった新紀元であり、 同時に一弦琴が渡来した第一歩でもある。以来三河木綿が興隆し、ガラ紡の一大産地となった。明治12年から、 矢作川の中畑町で固定した船に水車を設置し、日本唯一の舟紡績の集落ができた。 明治20年代よりこの舟紡績を見学に来ていた豊田佐吉が1924年世界で始めてG型自動織機を発明した。 世界で認められた発明の最初のきっかけが舟紡績にあったことは佐吉も度々語っている。

 矢作川河口では川砂を利用した鋳物業が古代より発展し、明治期には鍋、釜、アイロン 、郵便ポストが作られていた。戦後はそれらの工場がトヨタの部品を作るようになっているので、 いわば世界のトヨタを支える地域といえるだろう。矢作川周辺は赤土がたくさんあることから古代より土器が作られ、 今は瓦や鬼瓦、土人形、陶器の一大産地となっている。高浜には細工人形が伝承され、 ここから全国屈指の菊人形師も輩出している。 舟紡績を発明したのも、三河に数多くあるからくり人形の機構があったからと言われている。 一色の大提灯もそれらの技術の結晶となっている。 寺院や神社が多いことから、宮大工や仏師の技術も日本有数となっている。

 食料の歴史も豊かで、岡崎には美酒発祥の地 酒人神社があり、 江戸の町では三河の酒は辛口がいいと大人気だった。家康軍が強かったのはこの酒による消毒と、 携帯保存食としての八丁味噌にあったと解明されている。米、麦、大豆、大根、人参から、 海苔や浅蜊なとの魚介類や山間の食料まで、日本の食物のほとんどが揃っている地の利を得て、 矢作川流域では2000年以上ありとあらゆるものが作られてきた。そうしたところに住んでいることに大きな誇りを持っている。

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